[意見]『現代音楽を専門で勉強することは「逃げ」』と言う意見があるらしい・・・。専門家と観衆の場合に分けて考えてみよう

日々

「現代音楽を専門に勉強することは逃げである。」

という、どっから突っ込んでいいかわからない意見を目にした。

これについて、多角的にサッと脳裏によぎったことがいくつかあり、それを簡潔に述べていきたい。

専門家と観衆、というのがキーワードだ。

述べられた状況

おそらくではあるがピアノの先生、そこそこ大御所の人であり、その人が「現代音楽を専門に勉強するなんて、そっちに行っちゃうのね、逃げるのね」と、現代音楽を真剣にやろうとしている生徒に言ったということらしい。

この状況はそもそも想像でいろいろ補うしかないのだが、おそらくその先生はベートーヴェン、ショパン、ラフマニノフといった、いかにもピアノ的な曲しか知りません、という人で、いわゆる現代音楽の晦渋でありがちな音に魅力がないと切り捨てていて、それらの研究を行っている人を十把一絡げに蔑視しているのだろうと推察される。

もし仮にそうではなく、その先生には実は昔シュトックハウゼンやクセナキスの分析に命をかけ、それらがまったく聴衆に評価されず絶望した経験があり、弟子に同じ轍を踏ませまいと「そんな音楽はダメよ。逃げよ」と言った、などという映画か漫画でありがちの展開であったなら、言葉の意味合いは一気にエモみを増すのだが、まあ意味のない妄想であろう。

研究者目線で見ると

現代音楽を研究するという意味だけで言うなら、「好きにさせればよくね?」としか言えない。

そもそも日本人なのにあえて邦楽器ではなく西洋音楽を勉強しているという状況であり、そこから先、どこの国のいつの時代の誰の曲を研究したいという意欲がある人に対して、余計なことをいう必要はまったくない。あえていう必要があるとしたらむしろ、「全学生が同じ研究にならないように気を配ること」であると言えよう。学生30人が全員シューベルトの「詩人の恋」の分析を始めたら、音楽文化にとっては良くないのは明らかだ。まぁでもみんなそれがやりたいならそれも仕方ないけど。

これは大学という機関の特性上、当たり前のことである。

そこに「師弟関係」の特性が混在するからこの分野はややこしいわけだが。

まあ専攻問わず、よくあることだろう。医学界でとっくに有効性の証明されてる薬の研究を派閥争いのためにさせてもらえなかったり。「そんな研究は許しません」と言われなかっただけマシと言えよう。

観衆目線で見るその言葉

客の反応は実は現代音楽のほうがいい、「現代音楽」は意外と聴衆に受け入れられている、だからその(逃げであるという)理屈はおかしい、といった反論は現代音楽の当事者の中から飛び出しがちである。

これについては難しい話だ。

雑に考えるならば、例えばショパンのバラードなどのほうが、ブーレーズのピアノソナタより人類に聴かせた際に楽しめる確率が高いのはやはり明らかだろう。そもそも、ショパンのバラードですら、人類の中から考えた時に、あえて生で聴く人がそれほど多いかと言われると、疑問符がつく場合が多い。ポップスに慣れた人からするとバラードですらだいぶ複雑な構造で、バラードの全容を把握し、良さを味わえるということはすでに文化的にはだいぶ成熟していると考えることができる。

なので確率的にはバラードをやっておいたほうが「おトク」なのは事実だ。ほどよく難しいが理解できたときの達成感もあるものを、他の人より理解して、弾けるようにしておけばウケることは間違いないだろう。

つまり、現代音楽は意外と聴衆に受け入れられている、なんてことはない。たまにそういうことはあるかもしれないけど、それは偶然である。現代音楽なんて必要としてないし、理解できない人のほうが多い。確率的にはそう言える。

もちろんもっと視野を広げて、現代の、今私が日本人として生きていることと、その作品を演奏する意味を結びつけて考えてくれよ、そのほうが絶対に文化として成熟していると言えるでしょ、と主張することはできるし、私もそう思うが、そもそもショパンのバラードをやりたくてピアノを弾き始めた人にとっては、理解不能の音楽を理解する意味など理解できるはずもなく、なんとなくバラードが好きな人に囲まれていて特に困ってないなら、そっち行くよね、というのは流れとしては全然理解できる。そして、そういう人は多い。ピアノといったらショパンといった教育システムなどの関係上、仕方のないことである。そういう人が増えたら、当然「ショパン素晴らしい!ショパンが生きがい。現代音楽?よくわからん」としか考えられない人は増える。

現代音楽を志したい研究者のほうも、斯様なことは当の本人が一番良くわかってることで、それをあえて現代音楽方面に舵を切っているのだから、別にそれを止める必要はどこにもない。

現代音楽のほうが、「共感性が高い」というのは本当か?

ちなみにこういった主張がある。「今の時代に近い生まれの作曲家のほうが、とりまく環境的な意味で共感できるポイントが多いはずだから、ポピュラリティを得やすいはず、なので現代音楽のほうがより民衆の理解を得やすいはずだ」これは残念ながら甘い主張と言わざるを得ない。同時代を生きている我々の中で、共感できる人間はどれほどいるだろうか。明治維新の政治家より、今の政治家のほうが共感できるなんてことはあるだろうか。観衆はむしろ「古い人間でも、私とこんなに近い感性があったのね」というところにエモみを感じる。枕草子がいい例だ。結局は「共感を呼ぶものを作れるかどうか」であり、時代が下るから無条件で有利になることはありえない。もちろんそういった楽曲作りを志すことは可能だ。詩であれば俵万智などがぱっと思いつく。音楽であればほとんどのポップスはそうやって市民権を得ている。いずれも同時代だからこそ新しい「共感」と向き合った結果だ。そういうのを武器にしていく現代の作曲家がもっと増えてもいいとは思うが、悲しいことに今の現代音楽は、現代日本人にとっては「あ、そういう奇特な方でしたか」と取られる作品のほうが多くなってしまう傾向にあるのは事実で(それは西洋音楽の長い伝統下にあるという性質上、仕方のないことではあるのだが)、同時期に生きてる人だからという理由でその壁が薄くなることはない。

「現代音楽」という言葉の雑さ

「現代音楽」は幅広い。特に文字通りの現代においてメインストリームなんてものは存在しないのであらゆる音楽がある。ざっくり楽譜に書く音楽であればなんとなく現代音楽と呼ばれるが、ロックバンドや打ち込み・ミュージックコンクレートやノイズミュージックなどの人が現代音楽を標榜する文化ももう半世紀以上前から存在する。

そんな状況なのにことさら「現代音楽」そのものを塊で見ようとすることは全くもって思考停止である。

ただ、上記は専門家目線での話で、観衆が現代音楽を塊で見て、「なんとなく現代音楽ってわかんないよね」と言ってる状況は全然思考停止じゃない。普通の感想である。別に彼らには現代音楽がわかるようになる義務なんてどこにもない。それをある意味、専門家が客観的な視点で導いてあげる必要があるのに、逆に専門家自身の視野の狭さによって、観衆も混乱してしまっている。これが問題なのだ。

だからこそ現代音楽を知る人はより冷静になる必要がある。彼らこそ客観的に語る必要がある。

「現代音楽」にはすでに古臭いのもあるし、ダサいのもある。

でもカッコいいのもあるし、現代音楽的なコンテクストで古典なものもある。

歴史も長いし、複雑なものもある。複雑な名作の現代音楽は西洋音楽の奥深さを誇っているものだ。

めっちゃ人によって好みも分かれるけど、それってクラシックでもロックでもなんでもそうだと思う。

自分のフェイバリットを一人ひとり探せれば良い話で、「現代音楽」のポピュラリティがあるかないかなんてことを結論づけるのは無理だ。

「現代音楽」の研究をすることは「逃げ」というのを専門家が持つのは勉強不足、視野の欠如と言わざるを得ないが、それを観衆との話にまで当てはめるのは飛躍が過ぎるし、滑稽である。

っていうことがいいたかった。

まとまってるんだかまとまってないんだかわからないが、まあ、論文じゃないし、はい。

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