人となり

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門田和峻のざっくりとした人となりをご紹介します。

大阪生まれ。茨城育ち。

親戚はほぼ全員関西系。幼少時は大阪弁しかしゃべれなかったが、周りと言語が違うので無理やり標準語を覚えた。今でも親とは大阪弁だし、たまに日常会話でも出てくる。

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幼少時

幼少時のやらかしについてはよく親に聞かされる。「3歳のときにラジコンを買い与えたら、その1時間後にはネジ1つ1つを含めてすべてキレイにドライバーで分解させられていて、部品がきれいに並んでいた。原型をとどめていなく、修復不可能であった」「父親の初めての海外出張のときのパスポートが卓上にあったはずが行方不明、大騒ぎで探したらソファの下に隠してあった」「曾祖母の葬式で神社のネジを分解し柱を引き倒した」「時計など小物はことごとく煙のように消滅した。ハイハイの段階でそれらを見つけ次第ゴミ箱等に次々に投入していた」などとにわかには信じがたい出来事が連なっている。

洗濯機と電車にハマる。そのあたりに関係する漢字はすぐ覚えることができたという。基本的に好きなことはどんどん尖っていくが努力が苦手なのは変わらない。

6歳でピアノ開始。ただし練習大嫌い。たまに耳コピで遊ぶくらい。あとは自分で作った歌を適当に歌っていた。当時は絶対音感もそこそこあり、ピアノ上ならどんなに和音が重なっても音を当てられた。

あとはリトミックを習っていた。アトリエ・ドゥ・ダルクローズが近くにあり、これが結構本格的なやつで、結局高3まで続けることになる。体と音楽の結びつきは、かなり音楽活動へ役立っている。

小学校

小学校ではサッカー。あとゲーム大好き。すべてをゲームのためにやりくりした。小4で転校。ピアノとリトミックを一旦辞める。2年位のブランクの後、レッスンにだけ顔を見せる形で復帰。その後高3までつくことになる泉對優子先生にピアノを習い始める。ベートーヴェンソナタが弾けるくらいになると結構ハマりはじめ、いくつかのソナタを夢中で弾くことは多かった。

中学校

中学校ではバスケ部へ。夜遊びも多く学校も休みがち。そこそこテストの点はよかったもののテストの採点法に腹を立てて先生をひっぱたいたり、やりたい放題した代償として内申点は悪く、田んぼの真ん中にある平凡な高校へ行くことに。バンド組んでキーボードを弾いたり、DAW的なソフトを買ってもらい作曲をしたりなどのことに手を出すように。

高校

高校では典型的な「もっと頭良かったはずなのにこんなところに来てしまった」感を全面に出し孤立。勉強がすっかり嫌いになってしまい、出席日数等もギリギリで進級を繰り返す。作曲はこのころから習い始め、勉強がいやなので作曲で進路を模索することに。通えて近いという理由から芸大と東京音大を志望し、芸大は即落ちるが東京音大はぎりぎりひっかかりそっちに行けることに。

大学

大学で自分より奇人変人がうようよいることに驚愕し、真面目に生きようと考え、単位は真面目に取った。ライブハウスなどで自作のポップスっぽい曲を演奏してみたり、塾講師のバイトをたくさんやってみたり、酒をめちゃくちゃ飲んでみたりした。大学4年になった段階で、そういえば本来の作曲をちゃんとやっていないことを思い出し、親の払った学費等を考えるともったいなく感じ、門下を変更。4年はオケを書く以外の活動をすべて休止。睡魔でぶっ倒れる以外はすべて作曲した。初めて本気で本格的な作曲に取り組んだ瞬間であった。卒業時には演奏してもらえて、もう少し勉強の時間がほしいと思い国立の大学院である学芸大の大学院に進学。

大学院

大学院で初の一人暮らし、一番学生っぽく抜けていた基礎的な勉強などに勤しんだ。また劇伴の仕事を任されるようになり、公立の非常勤講師やバイト、任天堂などへの就活、現代音楽の作曲に授業も結構出ていたので、今考えるとものすごい充実ぶりだった。修了時にオケを演奏したくていろいろな人に協力を仰ぐが、その過程は自らの過失と他の人の過失が渦まき、ものすごい事故につぐ事故を生み、衝撃を受けることに。なんだかんだで仕事もぼちぼち来ていたのでそれをやりつつ、就活は全部惜しいとこまではいくものの全部落ち、多忙のままいつのまにか修了していて、知らぬ間にフリーの作曲家になってしまう。将来への不安はあったが、仕事がなくなったら考えよう、などとその時はぼんやりと考えていた。

その後

その後も仕事の波が様々で、それに対する自分のやりたい方向性も様々。調子が出ない時は就活やったり、講師を辞めたり、諸々ありましたが、とりあえず今に至るという形です。2019年結婚。ポップスと現代音楽をゆるく行き来しながら、広く愛されるような自分の世界を構築していくことをひそかに夢見ています。

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