絶対に孔子って現代に生まれてたらユニセフとか国連で働くいい仕事してる割にフェスとか大好きなおっさんになってたよね。というのは偏見だけど、ふわっとした根拠ならあって、というのも孔子は
「図らざりき、楽を為すことのことに至らんとは」
つまり「こんな音楽ってすげーんだ、知らなかった」と言うほど音楽を聴いて感動し、3ヶ月間肉の味がわからなかったという人物だったそうである。
そして、こうも言っている。
「吾祭に與(あずか)らざれば、祭らざるが如し。」
とは
「祭ること在(いま)すが如くし、神を祭ること神在(いま)すが如くす。」
の後に述べた言葉であるが、
「祭り(宗教的な祈祷も含む)をすると神がいるって感じするよね」「てか、祭りに参加しなかったら、祭がなかったのと一緒じゃね?」ということを言ってたということなのである。
コンサートに参加するということ
アーティストファンはいわばアーティストの宗教に入っている信者だ。彼らは降臨する神であるアーティストを崇拝している。
そういう人にとってコンサートは祭典であり、そこに参加しないことは自由だ。自由だが、そういう人にとってアーティストが神だという意識は薄らぐ。
つまり、その人にとっての「神」が消えていく、という現象が起きる。
宗教とコンサートという習慣の共通点
宗教的な祭典とコンサートはまぁ似てるよね、とか、ルーツは一緒じゃないかな、とかいうことはもともと思っていたが、そもそもこんな昔から、現代のコンサート的な思考も存在したのだ、というのは結構面白いかなーと思う。
宗教学的には参加しないと意味がないみたいなことは、孔子がいた当時としては大変めずらしいものであったのだという。キリスト教では神がいるのは大前提であるので、真逆の考え方である。つまり神ではなく自分に、概念ではなく身体的行為にアクセントが置かれている。そう考えると、例えば「あるライブに言ったらあのアーティストが神のように見えた」みたいな現象は、まさしく孔子のいうれっきとした宗教的感覚であり、逆に言えばキリスト教徒じゃないけどミサというのに始めて潜ってみたら、あ、確かに神おるような気がしてきたわ、というのは、すでにそこにはまさしく神がいる、ってことでいいんじゃないか、ということになる。
音楽やその舞台には、そういった神を生み出す力があるのだ、ということである。
この話伝わったかな・・・?
参考文献:教養としての宗教入門 中村圭志(著)
Kindle版も出ている人気作。
様々な宗教について、堅苦しくない視点で見てくれているので(聖☆おにいさんなどのサブカルにも明るい著者)興味があれば。
他にも老子の
「道の道(い)うべきは、常の道に非ず」
まあつまりはこれが真実だ、などということを述べてるようでは、そんなものは道ではない。真実というのは言葉では話しづらいものだ、ということで、禅が言葉を廃したのもここからきているらしい。一部のTwitterやメディアなど、またはその影響で、断定口調を安く連発する人びとへのささやかなカウンタープレゼントになりうるのではないだろうか。(禅は振り切って逆側まで言っちゃったパターンでそれはそれで面白いなとも思う)
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