下記ページにオペレッタとの違いは述べたのだが、その後改めて小山内伸著「ミュージカル史」をもとに研究し、興味を持ったものを記していくページを作成した。
ミンストレル・ショー
オペレッタ以外にも始祖はある。そのうちの一つがミンストレル・ショーである。
顔を黒く塗った白人が黒人に扮して滑稽なショウをやるという、現代日本人の感覚からするとデリカシーのなさすぎるものである。
Al Jolson plays blackface minstrel performer EP Christy in “Swanee River” (1939).
ミュージカルにおける黒人音楽の使用という意味では、決して無視できない存在であるという。
スティーブン・フォスターが最初のヒットメーカーと言われ、「草競馬」などを作曲した。日本では廣瀬量平が合唱に編曲したものが有名らしい。
レヴュー
ミュージカルの始祖はざっくり分けると「音楽劇」と「ショー」に分けられる。だから、ミュージカルは華やかでダンスも出てきて・・・というものなのである。典型的なショーのうちのひとつがレヴューであり、宝塚歌劇団は20世紀初頭パリのレヴューに強い影響を受けている。
当時の映像はあまりYoutubeには落ちてない。ブロードウェイではじめて大当たりさせたレヴューはフォリーズらしく、この動画はフォリーズって書いてあるからたぶんフォリーズなのだろう。
バレエとの親和性をすごく感じる。
ショー音楽の典型”The Girl from Utah(1913)”
マイフェアレディの作詞者アラン・ジェイ・ラーナーは、1913年ロンドンで初演のミュージカル”The Girl from Utah”のこの曲「みんな信じなかった」がショー音楽の典型となった、と述べている。メロディとジャズの裏打ち文化の始祖なんだって。
20年後にショーボートを作る人です。
我々が聴いても普通すぎて誰もこういう系の始祖だってわからんが、どうやらそうらしい。
初期ミュージカルを支えた5大作曲家
・アーヴィング・バーリン
・ジェローム・カーン
・ジョージ・ガーシュウィン
・リチャード・ロジャース
・コール・ポーター
ショーボートの何がすごかったのか
1910〜20年代、もっぱら上映されてたのは、
1:普通の歌劇であるオペレッタ
2:一貫したストーリーのないレヴューやオードヴィルなど
3:軽くて他愛のないミュージカル・コメディ
に類された。つまり、「壮大なオペレッタ」か、「軽薄なミュージカルコメディか」の2択しかなく、壮大と軽薄の中間択が存在しなかった。
というところに、すでに売れっ子作曲家としてブイブイ言わせていたジェローム・カーンが、これまで通りのことをやれば安泰なのにも関わらず、もっと違うことがやりたいと、骨太なストーリーを備えたミュージカルを企画した。
いわゆる、美味しいとこどりを企み、成功した。これが、ショー・ボートが革新的と言われた理由である。
ショー・ボートにおける音楽による演出
Can’t help lovin’ dat man(愛さずにはいられない)という曲は2幕でかかる曲であるが、ジュリーがこれを歌うと、黒人炊事婦が「なぜその歌を知ってるの?黒人の歌なのに」と言う、というシーンがある。脚本自体が黒人問題をかなりいろいろなところから物申しがきそうな勢いで描いているので、その中において黒人ビートを用いたことは特筆に値する。
その他にも、有名なナンバー「make believe」は「フリをする」という意味で、仮装パーティ的な場所で恋人の「フリをする」曲であるが、ソニーが一時期公式キャッチコピーで”make.believe”を用いた際に「どういうこと?フリをする?」とめちゃくちゃ叩かれてたのを思い出した。(関係ない)
ミュージカルにロックを初めて用いたとされる「ヘアー(1968)」
当時において長髪は反体制のシンボルであったという。
セリフなしで全編歌のみの、ミュージカルというよりロック・オペラ「ジーザス・クライスト・スーパースター(1971)
前半の「神殿」と後半の「逮捕」は同一メロディ。まったく趣旨の異なる歌だが民衆の歌という共通点では同じであり、民衆の移り気をあらわす。広義のライトモティーフ的な意味合いを持っていると言える。
その後、1980年代はロンドンミュージカルが席巻するに至る。キャッツ。レミゼ。オペラ座の怪人。
このあたりのことについては、また追記予定。
宜しければ、元四季のスタッフさんをはじめとする方々と一緒に作り上げた、私の作品もご覧になって頂ければ。
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