[読書感想]『日本音楽の再発見(小泉文夫、団伊玖磨』日本人にとっての「音楽」はピアノやヴァイオリンである理由などがよくわかるいい本

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昔の邦楽の概要を学び、へぇーなるほど雅楽があって能があって・・・みたいな知識を持っていたとしても、それが現在までどのような流れであるのか、みたいなことを考える機会はそうなかった。

おぼろげになりがちな疑問、音楽といったらなぜピアノやヴァイオリン、ベートーベンなど西洋音楽なのか。われわれ日本人にとっては琴や三味線、八橋検校なんじゃないんか。

小泉文夫・團伊玖磨「日本音楽の再発見」が古い本だが上記のような現代にも通ずる音楽観のギャップが詰まった良書。

当記事ではこの本の概要を話すのではなく、これを読んで私が感じたことを書く。

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「器楽曲」

日本の伝統音楽において。例外は八橋検校の「みだれ」なのだが、それ以外ほとんど器楽独奏という曲はない。歌曲と、その伴奏がほとんどである。

雅楽は?と思うけど、あれは中国の音楽だしな。

近代に入る

明治維新においてそれまで鎖国下で熟成していた日本の文化が大量に抹消されたのは我々の知るところである。

その後、西洋から入って来た文化は急速に日本に定着させられたため、それまでの文化と結びつくことはなかったのである。

たとえば信時潔は「クライマックスは減七の和音!!」と叫びピアノをガーンと弾いていた。とんだデュオニュソス的表現である。また山田耕筰は増5の和音をクライマックスでは必ず使った。

当時の日本ではその程度でも十分必殺技として通用したため、彼らは生徒にもそう断言していたが、その弟子たちの多くがそういう方法論のみを頭に叩き込んだだけの歌謡曲作家止まりとなったという。

なんとなくそんな調子でうっすらと西洋の上澄みだけとってきたから、深い意味での日本の文化との結びつきがなされないまま、今日にいたるということだ。

芸術分野にとどまらず、教育においても、やたら西洋っぽいことばかりを教育される、と出ている。その点は、現代においては邦楽の扱いはだいぶ増えている気はする。だが西洋音楽と壁があり、その壁の問題が進展する気が起きない感じは依然としてある。

「変奏曲」

小泉が作曲を少し習った際、邦楽だと、都々逸を真ん中に切って、その中に別のものを入れて長くするという「アンコ入り都々逸」という手法があるのだが、それを見せたところ、これは変奏曲ではないと言われたという。

モーツァルトみたいなものがイコール変奏であるというイメージが染み付いていることがわかるが、流石にここまで頭の固い先生は今時おるまい・・・いないよね?

というわけで

見所は他にも色々あって、團伊玖磨の夕鶴における日本語のイントネーション、方言を用いた際のイントネーションの変化に伴うメロディの変化などを山田耕作に反対された話とか、感じるところは大きい。言葉による音楽が盛んな日本は実はオペラは得意な筈だ、これからもっとその辺りのリテラシーが広がり、オペラがたくさん出てくる筈だ、という團伊玖磨の予想は当たっているとは言えない。何しろ彼の27歳の時の作品である夕鶴がいまだに日本発オペラ唯一の生き残りとも言える扱いを受けているのだから。私もそうそうオペラをかくチャンスはないだろうけど、歌曲とか書く際に、義太夫などの様々な資料を参照するべきだと思った。

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