音楽とカネの話は結構自分も考える。そのうちの1つをご紹介する。
実力者にありがちな「貧乏への道」
音楽を続けたい、でも食えるか不安だ、などという悩みは尽きない。
それはまぁある程度の実力のある人間の悩みかと思っていたのだが、実はある程度どころか「相当実力のある人間」、例えば「藝大や音大首席卒業」どころか「日本有数のコンクールで全国1位」とかのレベルでも多かれ少なかれ存在する、というのを大人になって知った。
なんでや、あんたらやったらいくらでもやりようがあるんちゃうんか、と考えてしまう。
その悩みの原因の主なものが「プライド」である。
これの持ち方も人それぞれだが、
「こうすれば食えるとわかってはいるが、やらない、やりたくない」
という人は結構多いのだ。
具体的に言うと、めちゃくちゃ上手いチェロの人がいたとして、「ここで皆が知っているなんとかって曲を定期的に演奏してくれればめちゃくちゃ人くるよ」という誘いがあったとして、それを断るケースがあるのだ。
彼は金はほしい。切実に。だが断るのである。なぜかというと「音楽の練習のモチベーションが、そういう誰でもできそうな音楽、安易な音楽、俺がやるべきでない音楽へのアンチテーゼ・反発にあるから」
彼を「めちゃくちゃ上手い人」たらしめている理由はまさにそういう音楽が最も嫌だからなのである。「その心が薄れた時、もしかしたらその仕事を受けるかもしれないが、その時は彼の実力も一緒に落ちている場合が多い」。
むろん、私自身の中にもそのような考え方はある。なければとうに音楽なぞ辞めている。
人による
「上手いけど、とるにたらないゆるい曲も素直にきれいに弾きこなす」人もいる。
懐が深いとも言えるし、そういう人にマニアックな曲も見事に弾かれた日にはお手上げである。
そういう人っていうのは、プライドを持ってないわけじゃない。「ゆるい曲すらも名曲のように変えてしまえる、という輝かしい才能を磨く」というプライドを持っているのである。
そこそこの上手さだったが、修行により苦手なものも弾けるようになりました、という人もいて、その人はうまーく食べている場合と、器用貧乏によって低く見られて苦心している場合に分かれている。
Google等で「プロ 音楽家」などと調べると、「プロになりたかったらいろんなジャンルに対しての対応力が必要」などとばかり出てくる(出てきた、今は知らないけど)。そういった助言を鵜呑みにしてか、単に成り行きでか、「そういう余計なプライドを捨てた」のだ。「プライドを捨てた」というとディスっているように聴こえるが、食えること、受容されることを優先し、実行した努力は尊敬に値する。もちろんこのケースの人は音楽の魅力はだいぶ薄味である場合が多く、ディスりたい気持ちもある。
「カネ」に困ってないボンボンもいる。
彼はつまらん仕事はそもそも悩まず即断る。わあ羨ましい。などという気持ちになる反面、演奏にもそういう下世話で下々にもわかるような躊躇や葛藤の色が出ないことが多く、そういうのがない音楽はつまらない場合が結構多かったりする。上手いし、色もあるが、つまらない。ルールを知らないマニアックなスポーツを観ているときの気持ちに近い。もちろん、ボンボンでありながら面倒くさいプライドと魅力の塊のようになっていったメンデルスゾーンという人も歴史上にいる。チャールズ・アイヴズもいる。一概に言える話ではない。
似たようなパターンで普通に働きながら超人的な上手さの人間もいる。
彼もカネには困っていないし、しかも仕事できているので社会的な能力もある。ないのは自由な時間だ。限られた時間の中でその演奏のクオリティを維持しているのだからすごい。彼は仕事を断ろうが、好き勝手やろうがなんの文句もない。勤務時間外の彼は貴族と変わらない。そういう人間からは自由で楽しげな演奏を堪能できることが多いが、生活がかかっていないのでどこかしらに緩みを感じるケースも多い。意外にも普段の仕事モードではなく、趣味と捉えているので、一気に時間を守らなくなったりし始める人も多いのだ。
逆に「貧乏を受け入れてしまう」人もいる。
いい歳でもボロアパートで独身でOK、安酒と楽器がありゃいい、などという人を見ていると、すげえと思うし、会ってる間そうはなれない自らを恥じ入ることになるので、あまり関わりたくなくなってしまったりもする。こういう人の演奏会へ行くと観客も相当の手練揃いであることがもう雰囲気でわかる。そういう人の音楽には一般人への気遣いはないか、あったとしても拙い。ただ人柄は変なしがらみ等はないので割と素直に話してくれる。
そこまで考えてなくて、単にほっといたらマニアックな方向にずんずん進んでいる人も多い。
彼は実は普通にカネになる仕事を欲している。だが、オーラと演奏の魅力がそれを拒んでいるのである。「素直でしょうもない演奏でいい、だって歌手のバッキングなんだから」みたいな仕事が実は結構カネになったりするのだが、彼のディープな魅力は明らかに歌手のそれを押しつぶしてしまいそうなのである。なので「なんか下に見られそうだな」「演奏の修正とか頼みづらそうだな」などといらぬ気を回してしまい、依頼しにくいのだ(本人からしたらたまったものではない)。そのくせセルフブランディングは奇人であるがゆえ、一般人の気持ちがわからないので苦手なのである。意外にこのパターンは多い。カネの出どころはとりもなおさず一般人なのである。
あとはまあ、そもそもこの話に入れない程度の実力の者も、当然だがたくさんいる。バイトやレッスン、営業等に時間をとられて練習時間が取れなかったりなど。たんにサボりがちだったり。私自身もそこかもしれないな。はっはは。これから頑張ろう。
パターンもいくつか
上記の「おいしい誘いを断る話」にも細かいパターンが存在する。
「断る理由」は曲がいや、という、それだけではないのだ。「その曲を使ってたいしてうまくもないのにのし上がって偉そうにいているやつ」の影が、脳裏にちらつく。そしてそういうやつの仕事は断ります、という仕事仲間の話を聞いていたりもする。「その仕事を引き受けたら別の仕事がしにくくなるのではないか」などという気を回してしまったりする。多いのは師弟関係などだ。アカデミックな仕事などをしにくくなったりするのでは、という場合は結構見られる。昨今はだいぶそのあたりはおおらかにはなってきているようだが。
「頼まれたらやるけど、自主的にはやらない」人と「自主的にやる」人にも分かれる。
上手い人が自主的に王道のポップスカバーとかやっちゃうパターンは、そりゃあ上手いっすよね、それを自分からっすか、ほうほう、みたいな気にもなるし、やりたいことをやりたい人がやってるんだから何か文句あんの?と自分でツッコミも入れるし、そうはいってもまんまと称賛されてるさまをみると、もっと作り込んだすごいものなんてわんさかあるんだから、そういう方にもちょっとは目を向けてくれよ、そりゃ難しいかもしれんけど、幾らなんでも差ありすぎだろ、などという気持ちになるのだ。
もちろん、「断る」という行為をする前に依頼主が「こういうの好きそうじゃないな」と気を回して、依頼がこないパターンが一番多いだろう。「別にそういうのもやりますよ」という「別に」という感じが、一気に誘うハードルを上げるのである。本人にはそういうつもりは微塵もないにも関わらず、である。
これらのうまい使い方、接点
一般の、音楽をやってない人から見ると、「なんで断るの?」「なんで文句いうの?」となる。そりゃそうだ。カネのためにやりたくないことをやるのなんて当たり前だ。やりたくないことをして、上や客にごちゃごちゃ言われて、その代わりにカネをもらうのだ。一般人からしたら「何をわがままな」という気持ちになるのも当たり前だ。
だが一方でその音楽家にとって、演奏の魅力や原動力そのものに関わる重要な問題であることも事実だ。彼はその原動力で、超繊細なタッチやアンブシュアへの拘りを練習で幼少時より狂気のごとく繰り返してきたのだ。それらを否定されることは大げさに言えば人間そのものの否定を意味するのだ。
両極の主張はそれぞれもっとも。そして完璧な妥協案は存在しない。だが、双方がその前提だけでも理解しあい、1歩ずつ歩み寄って、お互いひとつかみの幸福を得ることは私は可能だと考えている。「あの人は拘り強いから」のひとことで切り捨ててはあまりにもったいないし「あいつにはわからんのだ」と考えるばかりでももったいないと思う。無理やり近づく必要はないが、少しゆるめのアンテナをはっておきたいと私自身は考えている。
あとは、そういうプライドを持ってしまう心そのものが「わがままなんじゃないか」という葛藤、「逃げなのではないか」「どこまで受容しよう」という葛藤と、常に隣り合わせであるという宿命、その逡巡自体が、音楽そのものの深みとなって、にぶい輝きを放つのではないかと、そういう色はきっと面白く美しいと、私は考えている。
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