いつしか神が好きになった。
何記事にも分ける予定。
自分探し
自分探しというと軽薄なモラトリアムの感を醸すが、何も恥ずべきことではないと思っている。
むしろこれがそこそこ年齢を重ねた状態において、すべて終了したと思いこむことこそ危険だろう。
常に自らを発見し、更新していくのが日々というものである。
それを実行するに当たって、大学院在学時の後半辺りから私の中において本格的に宗教への関心が昂ぶったのであった。
そのきっかけはある時、「自分のもつ倫理感」が裏切られる体験をした時、に起こった。
簡単に説明すると、自暴自棄になった自分が引き起こした「他人を傷つけるつもりでやった行為」がむしろその「他人」にとってプラスだった、そしてもっと害意のある人間が、そのままノーダメージでのうのうとしていた、などという場面に、私は初めて衝撃的に直面したのだった。
もちろん教師とのファイトをはじめ学生時代からいろいろなやらかしはあったが、学生としてではなく社会人として、味わったことの衝撃は殊の外強かった。
そんなときに、ふと、自らの倫理感そのものの源泉が何であったのか、考え込むのであった。
そもそも「自分の信じた倫理感」とは、親や先生や友人に教わったもの、そして読書やメディアによって獲得したものであるのだろう。それは代々受け継がれてきたものである。
それらのさらに源流はどこかといったら宗教だろう。と考えたのである。
ということで、宗教関連の本をいくつか買って読んでみた話をしたい。ちなみに、ガイドブック等を先に読んで概要を掴んでから読めば良かったものを、大抵原典版に直行してしまっている。これはまさしく無謀であったのだが、その宗教の特性をより肌感覚で理解できたつもりでもいる。
聖書
日本語訳は旧約新約合わせて500ページくらいある。これを私は初めから終わりまで全て読んだ。今ではいろんな意味で無理である。一応言っておくが、キリスト教信者ではない。
ユダヤ教がもとである旧約聖書は、最初に創世記から始まる。
興味深いのは全知全能の神である主が世界をあらかた作ったあと、最後に「神に似た、生命体で一番優位なもの」としてまず男を作り、そして女を作った、というところである。
「アニミズム信仰」とは真逆の人間本位、そして男が優位に立っているという側面が見て取れる。キリスト教においては、人間は生物の中では一番えらい、というところが出発点なのだ。
ソドムとゴモラを滅ぼした天の火についてはラピュタを1万回観た私にとってはこれか、と納得させられるものであったが、その時のやりとりでは主のしもべであるアブラハムが全知全能のはずの主のことを論破しいてたりなど、ん?と思うシーンもあるが、主がアブラハムの知力を試していたと解釈するのが自然なのだろうか。
175歳まで生きたそのアブラハム、十戒で有名なモーセなどはすべて主のしもべである。主は選ばれた人間に、自らの言葉を与え、民衆に影響を与える。自分自身が降臨して何かをすることは無いと言っていいだろう。
イスラエルの民族の守護神として主は存在する。ヨシュア記ではイスラエルとヨシュアを欺いた王国を含む5王国連合との戦争が描かれるのだが、主が自ら敵国に岩を浴びせてイスラエル人を救うなどし、勝利に導いている。
その他、思わず突っ込みたくなる箇所は読んでいると出てくる。
出エジプト 31-15 「6日目までは働く。7日目は必ず休みである。この日に仕事をした者は殺されなければならない」
みたいな文言がある。安息日という要素が存在するのは知っていたが、死に値する罰がくっついているとは知らなかった。
また、ヨシュア記のダビデとサウルの話は単純にマンガ的な話に感じる。主に気に入られたサウルだがダビデに嫉妬したのが原因で主から見放されてしまう。二人は友情で結びついていたが、殺しあったり和解したりいろいろある。心情の細かな揺れ動きは現代でも漫画に出来そうな印象を持つ。またダビデは竪琴と即興の歌の名人であり、サウルの悪霊をこれによって取っ払ったのは音楽療法の先駆けとも言われている。
印象に残る点はそんな感じの聖書だが、全体的にとにかく情景描写が細かい。建物の装飾一つ一つの色合いや形まで、食べ物のおかず1品1品まで丁寧に述べられており、想像力をかきたてられ、芳醇な文化を生んできたのも納得というものである。
続き
つづきがあれば、新約聖書について、その後、イスラム教コーラン、法華経、仏教全般、ラーマーヤナやギリシア神話などについてや、音楽と宗教の共通点などについても述べていきたい。


コメント