下記のようなコンサートの新曲を書くにあたり、正岡子規という人物について調べたことを書きます。
・坂の上の雲
・ひとびとの跫音
どちらも司馬遼太郎著。
「坂の上の雲」上記の2巻あたりに、子規が日清戦争に出兵した際のことや、その後の子規庵について出てきます。
経歴
愛媛県に生まれる。
16歳にて共立高校(現在の開成高校)へ進学を機に上京。
23歳、帝国大学哲学科へ入学。後に国文科へ転科。
25歳、退学し、「日本」という新聞社にて雑誌への寄稿へ従事。
28歳、日清戦争に出兵。
その後、東京都にある民家に住む。(子規庵)
34歳 死去。
この人物の面白いところ
・帝大の寮を追い出される。原因は、正岡の「俳句や短歌」についてのレクチャーがあまりに楽しすぎたため、給費生などの優秀な人材が俳句や短歌にハマってしまったからである。
当時のほとんどの学生のテンションとしては、「立身」を目指すことのみに邁進すべきとなっており、そのような遊びにうつつを抜かすなど言語道断、という雰囲気だったということである。それきっかけで、帝大退学。
・その後入った「日本」という新聞社にていろいろな論評を発表することになり、俳句・短歌の研究者としても活躍。マイナーな新聞社であり、給料は激安であった。(夏目漱石があいつ金あると思ってたけどなかったみたい、みたいに言っている)
・調査・知識の鬼であった。「空想」よりも「実景」を好んだ。当時としては驚嘆に値する古来よりの文学についての調査量であった。それを創作の糧とした。
・「松尾芭蕉」について、当時神聖とされていた彼に対し、「多作な人物で、千首を超える作品を残した。良くないものも多い」とバッサリとした。「ただいろいろな発明をした人物なので、寧ろそれでも良いものをかなり残した方である」とした。
・日清戦争が始まろうというときに作った歌が「野に山に進むや月の三万騎」
当時の人間は割と一国の戦争がいかなる意味を持つかがまったく判っておらず、まあ言ってしまえば童貞みたいなもんで、戦争に対し稚拙なロマンしか持ち合わせていなかったという。子規も例外ではなかった。ちなみにこれを司馬遼太郎は「これが子規かと俄には信じられないくらいの駄作」としている。
・紀貫之は下手だ、古今和歌集はくだらぬ集、と新聞「日本」に記載。これは現代語に訳したわけではなく、文字通りそういった。あーあ言っちゃった。彼はツイッタラーであったら炎上芸人であったことは間違いないだろう。
その根拠としたのは「歌は感情を述べるものである。リクツを述べるものではない」わりとリクツっぽいとした。「月見れば千々に物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど」下2句がリクツである、というのである。
・俳句より短歌のほうが当時知識階級の人間が多かったため、上記の論評は炎上した。
・夏目漱石が語る正岡子規 かなり楽しそうである。「なんでも大将にならなきゃ気がすまない」と言う前から、「大将」と呼んでいる。
まとめ
エネルギーの塊のような男である。これ以外にも面白いエピソードは沢山ある。
苦手なこともたくさんあったようであり、完璧超人とは言えないが、その命の燃やしようは驚嘆に値する。当時の価値観、信念などとのかかわり合いもあるのだろう。
今となってはあまりに古い、と思う反面、一周回ってブロガーなど、研究に邁進しそれで生活する、という観点のみを考えると、生き方として現代に通じるところがないとはいえない。
いずれにせよ、非常に月並みになるが、偉大な先駆者への敬意・その生き様を知ることの重要性を思い知らされた。
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