「やりたいことをパッと見、わからないようにしたい」ということ
岡田斗司夫チャンネルというアニメの重鎮っぽい人が語るチャンネルで、「宮崎駿は綿密に作り込んだ設定を、ほとんど作中で説明しない」「それは、本当にやりたいことを見せたくないからだ」みたいなことを言っていたのを、なんとなくおぼろげに思い出す。
これについてちょっと考えた。
確かにそういうひねくれ根性で、そのシーンの狙いをわからないようにしているというのもあるし、もっとあるとすれば、「狙いがわかる」ということそのものを「イヤらしさ」「ダサさ」と捉えるかどうかの意味合いもあると思った。
逆に「これはラブシーンです」といわんばかりのシーンで、役者で、そのラブシーンが見事であれば、それがかっこいいという価値観もあるだろう。パッと思いつく代表的なのがディズニーだろう。
宮崎駿の映画にはそういった「これが狙いだと5,6文字で表現できるシーン」というのが少ない。「なりゆきでこうなった」という以外、言いようのない場面が多い気がする。ディズニーの場合だと「この人とこの人の仲が深まりました」ということが決まっていて、それをいかに面白く説明するかということになっているのに対し、例えば「ラピュタ」の「ドーラの息子たちがシータの料理場に順番に入っていくシーン」というのは仲が良くなったわけでも、恋愛のシーンでもないし、「タイガーモス号の展望台でシータとパズーが見張りをしながら語らうシーン」も、これは恋愛的なシーンなのか?という安易な予測ができないような描写になっている。これは普通にラピュタに馴染んで育ったから普通に感じるが、世のアニメなどを観ていると、なんとも曖昧なシーンに感じる。
音楽その他の表現でも
こういう趣味趣向はそのまま音楽をはじめ様々な表現の場において現れる。
たとえば「キレイなメロディ!!以上!!」という、それを主張するだけの場面で構成するのかどうか。
コンテンポラリーな趣向が強い作風であれば無論そういった議論とは無縁だろう。問題なのは普通の調性音楽、あるいはポップスの歌ものなどを作る時の話である。ラピュタであれば側は普通のアニメ。歌であれば側は歌である。「キレイなメロディ!!これはまさに愛のロマンスに違いない!!」と誰しもがわかるものなのか。あるいは「キレイなメロディだが、明るいのか、暗いのかわからん」のか「メロディだが対位法的になっており神聖さも感じられる」「旋法的になにかしらの暗示が感じられる」「他のシーンとの結びつきでなにかの意図が感じられる」というひねくれ要素を入れるのか入れないのか。
これは好みの問題だろう。
だが美は往々にしてバランス感覚の軸が多いほど危うく美しい。作品にその軸を内在させる努力は、私は続けたいと願っている。
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